文化干しはなぜ<文化>?


千葉県漁連・銚子冷凍冷蔵工場の吉清さんからの質問。

「仕事柄、聞かれることがあって困っているんですが、さば文化干しの<文化>の意味を教えてください」

これは深そう!文化干し、文化住宅、文化鍋・・・文化がアタマにくる商品が次々浮かんでくる。そういえば大阪の学校乱入殺傷事件で宅間容疑者が手にした凶器も文化包丁といわれている。なぜ犯罪の道具が<文化>なのか?わかるようで、さっぱりわからない。手始めに文化干しの由来から探偵活動をはじめることにした。

文化干しの元祖は東京仙印商店

文化干しという言葉からは、天日干しに替わる新たな乾燥法のようなものが想像される。が、実際には、製法よりも包装が先だったようだ。東京仙印商店のサイトによれば、同社の創業は1950年(昭和25)。発泡スチロールのトレイも真空パックもなかった時代に、魚の干物をセロハンに包んで販売したところ、見た目に美しく、画期的だったことから<文化>の冠がつけられたらしい。その後、製法も進化し、水産加工業界では「冷風乾燥機を使用した干物」を文化干しと呼ぶようになった。中身よりも外観、カタチから入る、といういかにも日本的な文化が伺える。

高度成長日本の象徴、文化住宅

中身よりもカタチといえば、よくわからないのが共同住宅のネーミングだ。今、アパートという名称は新築物件にはほとんど使われることはない。それに替わってコーポ、メゾン、レジデンス・・・実体とは関係なく名称だけが無限にふくらんでいる。意味の真空状態だ。ネーミングの世界では珍しい現象とはいえないが・・・。当初、このように規格化された2階建て構造の共同住宅は文化住宅と呼ばれていた。文化住宅研究のサイトによると、文化住宅は1955年(昭和30)あたりから、大阪圏に集中的に建設されたらしい。工業化の発展にともない労働人口が急激に増えたことが背景である。文化住宅は、高度成長期におけるニューファミリーの象徴だったのかもしれない。ここで使われた包丁は、研ぐ必要のない文化包丁。コンロの上には、吹きこぼれのないアルミ製の文化鍋がある。共通しているのは家事労働の簡便化だ。ニューファミリーには嫁も姑もいない。夫も妻もキッチンに立つ。それを可能にしたのは太平洋ベルト地帯を軸とする重工業の発展、世界にも例のない高度経済成長だ。ライフスタイルは一変し、それを予感させる商品には<文化>の冠がついた。

ネーミングと文化

文化住宅は1950年代以降、日本の高度成長期における関西発信の<文化>であった。それから約半世紀後、深刻なデフレ経済を背景に、同じ大阪で文化包丁による殺人事件が痛ましく報道されるとは、なんとも皮肉なことだ。そういえば、中国の文化革命が、なぜ<文化>なのか?これもさっぱりわからない。実体は文化とはかけ離れた暴力、殺戮、ゲリラ戦による革命であったにも関わらず・・・。いや、ここで文化の意味を問い直す必要がありそうだ。少なくとも、文化干し、文化住宅、文化鍋といった<文化商品>における<文化>とは、ぜいぜい「新しい生活」という程度の意味しかない。似たような用語はいくらでもある。最近でも「コンピュータ○○○○」「エコ○○○○」「構造改革○○○○」「○○○○のカリスマ」など本来の意味を失っている(真空化した)名称が跡を絶たない。文化本来の意味はともかく、よくもわるくも、その軽さこそ日本的なのであり、文化といえば文化なのだろう。

★追記

文化シヤッターの創業は1955年4月のこと(当時は日本文化鉄扉、同年8月、文化シヤッターに社名変更)。大阪で文化住宅の建設ラッシュが始まった時代である。(化猫)

★異議アリ!
1955年8月に文化シャッターへの社名変更があったとのことですが、正確には日本文化シャッターへの社名変更でした。当時、東京と関西に同名の日本文化シャッターがあって兄弟で社長をしていました。(東海社長と関本社長で姓は違っていましたが)その二つが合併して文化シャッターになったのは1970年以降だったと思います。(匿名さん)

文化放送はなぜ文化なんでしょうか?もともと財団法人で、キリスト教系団体も関与していたという話を聞いたことがありますが、それとどういう関係があるのでしょうかね?(あかさたなさん)

★とてくのんさんの調査

文化放送はなぜ文化放送なのか、キリスト教団体とかかわりがあるのでは、というのがHPにございましたので、調べてみました。

「女子パウロ会」という、カトリックの女子修道院(主に出版事業を手がけている)のホームページにある、「女子パウロ会日本創立50年の歩み」のなかに、こうあります。

「放送事業は、戦後しばらくの間占領軍により統制されていたが、GHQ(占領軍の指令本部)が民間放送を認める方向にあるという情報を耳にしたパウロ神父は、この機会を逃しては日本における新しい使徒職の道は開けないと感じ、1948年9月、カトリック放送局設立のための下調べを始めた。1948年12月、逓信省電波局に「セントポール放送協会」を申請し、1949年には新宿区四ッ谷で建築に取りかかった。また、1951年1月に電波管理委員会に「無線局免許申請書」を提出し、2月に「財団法人日本文化放送協会」と改称、4月には予備免許を受けることができた。」

つまり、もともとは、キリスト教の放送局だったわけです。スタッフは全員シスター。

「しかしその喜びも束の間、開局後間もなく労働組合が組織されると、修道会が運営していくことは難しくなってきた。(略)しかし、1956年2月14日、放送局は「株式会社文化放送」と改組され、以後聖パウロ修道会は株主の一員として留まるだけとなった。聖パウロ女子修道会は残務整理をえ、1956年8月20日に全員退社した。」

上記の記述を見ると、労組と修道会との対立が原因で、普通の放送局になったように見えるのですが、たぶん、「電波法」と「放送法」が昭和25年(1950)に出来て、一宗教の布教のための放送局として運営して行くのが難しくなった、ということだと思います(あくまでも私見ですが)。

感想)吉田照美よ、ロバ顔してる場合じゃないぞ!(化猫)