銀行の歴史・コタツ談話

トークバトル


化猫(シロウト代表)

ナンバー銀行の話題がでたので、
作業中、ちょっと気になったことを書きます。
ワタシ、無学なもので、いろいろと教えてください(^^;)

153のナンバー銀行(国立銀行)が設立された背景としては、
明治維新後の日本政府が非常に貧乏だった、という事実が推測されます。
だからこそ、民間企業に紙幣発行を委託したわけですね。
その結果、強力なインフレーションがおこり、金融システムそのものが破綻してしまう。
政府のマネー実験はとりあえず失敗に終わったわけですが、
その後、日露戦争で日本は華々しく近代コッカとしてのデビューを果たし、
富国強兵・殖産興業というわけで、急速に産業が立ち上がっていくわけですね。
そこで、素朴な疑問なんですが、その資金はどこから提供されたのでしょうか?
日露戦争の経費、製鉄所や鉄道の開業資金、金融システム再建の資金・・・
少なくとも、明治政府にはお金はなかったわけで・・・民間?まさか徳川埋蔵金とか?
もしも外国の誰かが日本に「出資」したのだとすれば、
当然ながら、その見返りとしてなにかが支払われていなければなりません。
それは、たんなるお金(配当)だけだったのでしょうか?あるいは別の取引・・・

その辺の事情に詳しい人、いませんか?

シロウトがいたずらに始めたナンバー銀行探検ですが、その鉱脈は意外と深く、
目の前に「危険!この先立入禁止」のプレートが見えてしまいました。


無頼庵飯野さん(カメラ碩学)

以下マチガイがあったらごめん。

少なくとも、日露戦争の経費は主に外債です。
日英同盟のお陰で、イギリスの息のかかった港で、バルチック艦隊が足止めされたから、
ロシア海軍は勝機を逸したというのは有名ですが、その頃、金を借りまくった男がいます。
高橋是清です。当時の日銀総裁だったと思います。英米からの外債です。
当時、日本との戦争で、ロシア側にフランスあたりが参加したとしたら、
イギリスは同盟規定により日本側について参戦したはずです。

でも日清戦争の時のような、膨大な賠償金は奪えなかった。
どうやって返したんだろう?

化猫

無頼庵さんありがとう。
高橋是清ですか(変換しない有名人!)ますますアヤシイなあ。
日英同盟というのは、実際は金融契約だったんじゃないですか、
○○チャイルドとかの勢力との・・・

ギャグメンさん(現役大学生)

part1

これは主に推測ですが、その前の日清戦争の勝利で、彼等は
多額の賠償金を獲得しています。これを資金にして北九州の
「八幡製鉄所」を設立しました。この事が、小国日本を
軍国主義へと傾倒させる重要な一因になった事は考えられると思います。

自国で鉄製造技術を持つ事により、それまでの様に外資を導入しなくとも
張り合えるだけの国家能力を有したのではないでしょうか?

それと、日本には当時「養蚕業」という、微力ながら外資獲得のための特筆すべき
技術がありました。その背景には、「富岡製糸場」の設立があります。
これは確か日清戦争以前のものです。養蚕業、それに伴う欧米の
「オリエンタル・ブーム」によって「治外法権」を放棄、
「関税自主権」を獲得したのは言うまでもありません。

近代の欧米「オリエンタル・ブーム」には何度か波がある様です。
「ハーディング、クーリッジ、フーバー」時代のアメリカの
オリエンタル・ブームは、ジャズ・エイジに大きな影響を及ぼしています。

世界史が大好きだったなかがわより。

part2

それから、日本は第一次大戦の時に「日英同盟」に基づき
イギリス側に付きました。ここにおいてアジアの戦力の中心は日本であり、
前記の「八幡製鉄所」で作った武器を諸国に売りまくり、
日露戦争での借金を返しておつりがくる位稼いだのです。これは事実。

第一次大戦で参戦したヨーロッパ諸国は弱まり、新興勢力である
「日本」と「アメリカ」が台頭する時代がやってきました。
アメリカは大国で、民族的な問題も無かったのでそれでよかったのですが、
日本は逆に「調子にのってる」という見られ方をされました。
その後は皆さんの御存じの通りです。

こういう見方をすると、第二次大戦当時の日本が、如何に精神的に追い詰められて
いたのか、分かる気がします。

どんなもんでしょうか?それではまた明日。

part3

ちょっと言葉が足りませんでした。そして修飾が間違ってました。

「これは主に推測」は、「自国で云々」の前につきます。
日清戦争の賠償金で八幡製鉄所を設立したのは事実です。

「第一次大戦で参戦したヨーロッパ諸国は、長引く戦火の中で弱まり」
第一次大戦は、それまでの戦争とは違い「長く、本気の勝負」でした。
そんな戦争をした諸国が弱まる事は想像できると思います。

高橋是清がロスチャイルドなどの大資産家からお金を借りた背景には、
まさにオリエンタルブームがあるようです。

19世紀末〜20世紀初頭の日本は、意外と強かったようです。
それでは、大変失礼致しました。止まらなくなってしまいました。
http://www.vinet.or.jp/~stride/

化猫

ギャグメンさん

さすがに詳しいですねえ、ありがとうございます。

いずれにしても、日露戦争のスポンサー(ロスチャイルド?)は
とりあえず利益はだした、ということですよね。
日英同盟・・・それに比べて日栄なんかに融資している、
現代の日本の銀行、資産家はなんてスケールが小さいんだろう!
それはともかく、知りたいのは、そのような状況で、
日本の銀行がどんな役割を担ってきたか、担おうとしたか?
と、その実験ともいうべきナンバー銀行(国立銀行)に、
どんな青写真があったんだろうか!

無頼庵飯野さん

国立銀行の開業は明治6年。目的は殖産興業です。
同年に地租改正。西欧のように近代的な資本主義社会になりたいところ。
だったら、巨大資本も欲しくなる。それで政商も保護した。
政府みずからも官営事業をすすめたけど、うまくいかない。
国立銀行の兌換紙幣発行もうまくいかない。

じゃあ、封建的な俸禄制の廃止にともない、華氏族が
手にした公債も資本にしていい。
しかも政府発行の紙幣とも交換できるとしよう、となれば
みんな国立銀行を作って、公債をもとに不換紙幣を発行して
みようってなりますよね。
そうなったら、もう手がつけられない。インフレへ直行です。

結果として、松方デフレ財政で処分され兌換券発行、
そのうち経済は落ち着き、官業払下げは、政商の産業財閥化につながった。
この間のデフレ不況、資本主義化の推進で農村は階層分化、
都市へ流入するものも多くいて、なぜかうまい具合に産業革命の
底辺を担う労働社葬も創出できちゃった。

封建制社会の解体〜地租改正・秩禄処分〜殖産興業・富国強兵〜
巨大資本の育成〜産業革命・近代化、これが結果としてうまい方に
転んだのは何故なんでしょう?
やはり陰の力が働いたのか?神の国だとしたら神様のお陰?

ワタクシが気になるのは、そうした時期を通じて、
江戸時代後期〜この時代に尊敬の対象であった中国、朝鮮に対しての
意識が、軽蔑、あるいは植民地支配の対象に完全に転換したことです。
アヘン戦争で西欧の植民地支配へのあからさまな野望を知った
日本でありながら、あえて列強の輪の中に入ろうとした。
盗らないと盗られるという強迫観念があったのか?
西郷隆盛の征韓論〜不平等条約締結。
脱亜入欧のために、朝鮮を防波堤にするという福沢諭吉の脱亜論。
(当時の中国政治の腐敗に憤慨しての発言かもしれないが...)
幕末の志士の思想に影響力をもった吉田松陰の、
一人の君主と万民といった思想、これが八紘一宇に繋がったのか?

日英同盟は軍事攻守同盟です。
あと、八幡製鉄もそうですが、銀本位制→金本位制への移行の準備金もね。

それと日本は歴史的に見て、
古代以来、その地理的環境(ロシア・朝鮮半島〜中国の中間に位置し、
しかも、極東の内海ともいうべき日本海を隔てていること)に
ずいぶん助けられてますよね。文化が伝わるには十分な近さで、
攻め入るには難しい。
元だけでなく、高句麗・新羅にも地続きなら滅ぼされたかもしれません。
また、大航海時代〜植民地時代の西欧の好奇心は、
あくまでも広大な中国大陸。その中継にはもってこいの場所です。
更に、ロシア南下政策への堤防、ソ連もそう。だから強い国に優しくしてもらえた。
この地理的環境で得してますよね。

ギャグメンさん

日本が中国の様にターゲットにされなかったのは、
日本の国土が、領土としてとるに足らないものであった事も、
主たる原因の一つだと思います。現に、最初に本格的に朝鮮に
手を出したのは日本であるからです。

「アヘン戦争」が、中国に対する列強のそれまでの意識、倫理観
(イギリスは自国の罪に責任を感じていた様です。
アヘン戦争をやるかやらないかのイギリス議会の決議は、
三票差だか五票差で決まった、という話を聞いた事があります)
を崩壊させ、「日清戦争」で更にその傾向は強くなり、
(日清戦争で日本が勝利するや否や、列強の中国獲得作戦が
急激に進行しました。イギリスの香港返還の時期とかからも
実感できますよね。日清戦争1894年、イギリスの香港を借りる
契約は100年でした)
日本は逆に「利用価値」を見込まれた。その結果の、
ロシア南下政策への堤防としての「日英同盟」
「日露戦争」の意外な結末、「第一次大戦」の「大戦景気」
こうして日本の近代化は進んでいった。列強の認識も変化していった。
そして、ワシントン4カ国条約(日英仏米)
(名目は『もうあんな戦争は2度としない様にしよう』という事だったと思う)
を締結する事になった。
そんなシナリオが、僕の頭の中で交錯します。

比較的に見ると、中国の場合は「変なプライドがあった」
朝鮮の場合は「気付くのがほんの少し遅かった」という事ではないでしょうか?

僕の疑問:僕は日本史はほとんど知りませんが、
「紙幣の片面印刷」って、いつ頃でしたっけ?

自己アピール:僕は受験生ではありません。

無頼庵飯野さん

片面印刷は、震災恐慌か金融恐慌のどっちかの時だと思いますよ。

一応かつての専門は日本古代史。しかも律令国家の神祇制度史。
近代史は、あんまり細かいことは知らんぞ。寝ます。

S都銀支店長さん(寄稿)

三井両替店が幕府の御用両替商であったことはご存知のとおりです。
江戸の三井家は幕府の政策と結びつくことで営業をしていました。
江戸市中融通貸付や関八州通用金札引き受けなどです。
それに対して京の三井家は慶応元年以来薩摩藩と接触し、鳥羽伏見戦争の資金を始め草創期の政府の資金の提供をしていきます

慶応三年12月新政府が成立するや、京の三井は金1万両の借入を依頼されます。しかし、幕府も苦しいので献金ならば小額でも良いという内意があり、三井は金千両を献金します。
財政基盤の極めて脆弱な新政府は京都市中の豪商から献金を募り、慶応4年までに金4万両を調達します。このときも三井は他の御用両替商(小野、島田)とともに1万両を献納しています。ところが当時三井も混乱期で非常に財政がくるしかったので、京両替店にかねてより積み立ててあった秘密積立金からこれを出す有様でした。

さて官軍の東征に際しては、三井は東征軍の金穀方を命ぜられ手代を官軍に随行させました。
三井の担当した「東山道鎮撫使」は、軍資金が枯渇すると京都から資金を取り寄せて軍を進め、また資金不足になると京都に使者をだすといった有様でした。
そして江戸に到達してもすぐに軍資金10万両の調達を命ぜられたのです。

そんなこんなで三井は官軍に協力し、最終的には三井銀行が「発券銀行」になるための画策をするのです。三井は政府から新貨幣為替方を独占して拝命し、明治4年7月にイギリス流の中央銀行になる「新貨幣銀行創立願書」を提出します。明治4年8月に大蔵省から「書面願之趣聞届候(しょめんねがいのおもむき、ききとどけそうろう)」という認可を得ます。
しかし朝議は一変、政府は翌9月アメリカ出張中の伊藤博文の強い主張で米国流の国立銀行制度を採用するにいたりました。12月渋沢栄一の草案により国立銀行の検討が開始され、ナンバー銀行が出来ていきました。


(旧三井銀行の編纂した「三井両替店」に詳細は述べられています。非売品なので図書館などで捜してみて読めば事情が分かると思います)

化猫

これはスゴイぞ!幕府御用両替商・三井家の暗躍(英国式)VS 国立銀行(米国式)の図。誰か、そのあたりの事情をもう少し詳しく教えてくださいませんか?


続編に参加しませんか?ご意見、情報はこちら。mailto:seken@dik.co.jp

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