「日本語と隣の国から世界を見る」というユニークな言葉のサイトを開設されている信太さん(リンク参照)から、三菱鉛筆はあの旧三菱財閥と関係があるの?というご質問をいただきました。
これは結論から先に書きましょう。関係はありません。でも、マギラワシイですよねえ!
ワタシは学生運動の世代ではないんですが、20歳前後のとき、その温もりをもった人たちの集会に連れ出されたことがあります。詳しくは覚えていませんが、なんでも自衛隊が最新鋭の戦闘機を買うとかで、それに対する抗議運動だったように記憶しています。入口で血圧の高そうな活動家が宣伝ビラを配っていたんですが、「軍拡に断固反対!」みたいな文字の下に「みんなで三菱鉛筆の不買運動をしよう!」と独特のレタリングで書かれていました。
彼らの頭のなかには、当然のように「三菱鉛筆=旧三菱財閥=三菱重工(軍需産業?)」の図式があって、ゆえにケシカランと・・・しかし、エアコンやクルマ、まして戦車などはそう簡単に不買運動はできませんから、とりあえず身近なところで鉛筆、ということになったのでしょうね。しかし、これはおそるべきカンチガイというもの。実はウチの近所に三菱鉛筆の工場があった関係で知っていたんですけど、それは旧三菱財閥とはまるで関係のない会社だったのですから。
日本の鉛筆工場は三菱から
三菱鉛筆のサイト「鉛筆なんでもQ&A」によると、同社の創業者は眞崎仁六(まさきにろく)という人物。1887年(明治20年)、水車を動力とする工場で、鉛筆製造の工業化に着手。「眞崎鉛筆製造所」を設立します。1901年(明治34年)に逓信省(現・郵政省)へ国産としてはじめて鉛筆3種類(硬・中・軟)を納入、翌々年の1903年(明治36年)には「三菱ブランド」を登録しました。これが上記の誤解を生むキッカケになるわけですが、この三菱マークは眞崎家の家紋(三鱗=ミツウロコ)と逓信省に納入された3種類の鉛筆を象徴するものだったらしいです。1925年(大正14年)、横浜の大和鉛筆と合併し、眞崎大和鉛筆がスタート。1952年(昭和27年)に社名を三菱鉛筆に改称、今日にいたるというわけです。
財閥のマークは?
さて、いっぽうの三菱財閥系マークですが、三菱自動車のサイト「三菱マークのなりたち」によると、これは創業者岩崎弥太郎の家紋(三階菱)と、土佐藩の藩主だった山内家の家紋(三ツ柏)を合わせたもので、1910年(明治43年)に現在のマークになったようです。単純に比較はできませんが、少なくとも三菱鉛筆の商標はこれより7年前にすでに登録されているわけですから、便乗マークではなかったものと思われます。ただ、財閥というとやはり鉱山との関係が濃厚。鉛筆も鉱山から採掘される黒鉛を原料にしていることから、どうしてもイメージが重複してしまう気持ちもわかります。しかし、あくまでも両者に資本的な結合はないわけですから、軍拡反対や反原発の署名などにも、三菱鉛筆は安心してお使いいただけるわけです(笑)。ちなみに1560年代、イギリスのボロウデール鉱山で発見された良質の黒鉛が鉛筆のルーツ。日本では伊達政宗の時代から鉛筆は使われていたようです。
【追加情報】
三菱の登録商標についてですが、私が聞いたところによると(あまり信憑性はないかもしれませんが)三菱財閥系の方が、鉛筆の方に使用の許可を願い出て、許可がおりたため使用しているとのこと。もし、この件について詳しいことがわかりましたら、更新よろしくお願いします。(匿名さん)