三ツ矢サイダー112年の謎。


日本最古のサイダー

 三ツ矢サイダーといえば、アサヒ飲料の主力ブランドのひとつだ。人気の秘訣を同社鏑木宣伝課長はこう語る。「三ツ矢サイダーは透明炭酸ですので、中高生の男の子に主に飲用していただいておりますけれども、112年の歴史を持っている商品ですから、お母さん、そのまたお母さんというふうに広く、場合によっては、親子三代で飲んでいただける商品です」

 え?112年?親子三代?そんな大昔に、アサヒ飲料はおろかアサヒビールだってなかったのでは?素朴な疑問から語源探偵団、ひさびさに出動!!!

たけ「112年前って、明治だよねえ、ゼッタイ」
ゆか「そんな大昔にサイダーなんかあったの?」
たけ「ラムネとか・・・ふるそうじゃない」
ゆか「あれはジャパニーズなのかなあ?」
団長「ラムネの語源はレモネード。日本産ではありません」

キリンビバレッジ「清涼飲料水の歴史」によると、「ラムネ」は嘉永6年(1853)、ペリーの黒船とともに日本に上陸。炭酸飲料の歴史的幕開けとなった。当初は栓を開けるときの音から「ポン水」などと呼ばれていたようだ。国産ラムネの第1号は慶応元年、長崎の藤瀬半兵衛による「レモン水」である。ちなみにラムネといえばビー玉入りのボトルなんだけど、これは英国人コッドが発明したもので、日本ではじめて試作に成功したのは、なんと「徳永玉吉」という人物だったらしい(『ザ・ジュース大辞典』扶桑社)。明治期になると炭酸飲料は大流行したコレラの予防薬として、国民的ブームを迎えることになる。三ツ矢サイダーが誕生したのはそんな時代のことだ。とりあえず「日本最古のサイダー」といわれている。

天然の炭酸飲料

さて、炭酸飲料というと、いかにも人工的なイメージがあるけれど、もともとは鉱泉から湧きでる天然モノだった。炭酸飲料ブームとともに、各地で鉱泉水(天然炭酸水)の掘削が行われる。これを先駆けたのが「平野水」である。兵庫県川西市のHP平野鉱泉いつか見た街によると平野鉱泉は、その昔は摂津三湯に数えられる名湯だったらしい。明治17年、この鉱泉水が「平野水」として飲料用にビン詰め販売される。これが三ツ矢サイダーのルーツというわけだ。明治40年には、シロップを加えた本格的なサイダー生産設備(現・アサヒビールと関係の深い帝国鉱泉→三ツ矢シャンペンサイダー)も稼働し、最盛期には500人の従業員をかかえる「東洋一」の工場に発展していった。

一ツ矢サイダー???

ところで、三ツ矢サイダーのネーミングに関しては謎がある。さきの『ザ・ジュース大辞典』によると、販売者は明治屋だったらしい。三ツ矢の名称は鉱泉周辺(多田銀山)に伝わる地域伝説からきている。源満仲が放った矢がこの地に落ちて云々という、ありがちな故事に由来するのだが、実は矢が1本の「一ツ矢説」と3本の「三ツ矢説」が入り乱れている。実際、明治18年当初は、いったん「一ツ矢サイダー」の名称で発売されたものの、売り上げ不振から経営者が交代。鉱泉そのものが「三ツ矢鉱泉」に名称変更している。三ツ矢サイダー商標はそこから生まれたものだ。謎といえば、多田銀山は宮内庁から三菱に払い下げられたもので、「平野水」はその三菱が販売していたという。が、これと「三ツ矢サイダー」(明治屋)の関係がよくわからない。あるいは「三ツ矢」の三は「三菱」からきているのだろうか(笑)?事情通からの正確な情報を待つのみである。関係ないけど多田銀山は猪名川町・川西市・大阪府にまたがる銀銅山で、地元には徳川ならぬ豊臣秀吉の埋蔵金伝説が残されてるらしい。

いずれにしても112年である。三ツ矢サイダーの歩みは、そのまま日本の清涼飲料水の歴史でもあったのだ。関係ないけど、三ツ矢サイダーといえば、その昔、コップに水を入れて、木琴のように7つの音階を楽しむ「ドレミファグラス」の懸賞があって、結構みんながもっていた。水の微妙な増減でホンキートンクなチューニングを楽しんだものだけれど、ほとんどの家では、1音、2音、たいがいグラスが欠けていた。

☆情報

デカンショ節で有名な丹波篠山の山奥に、籠坊温泉という場所があります。以前そこに迷い込んだ時、妙な看板を発見し、車から降りて読むと、「ここから出た炭酸水を、サイダーとして売り出したのが三ツ矢サイダーの始まりである」という内容の事が書いてありました。(インディ花沢さん)