挫折の日々/塙保己一の生涯
国学者として、日本の古典文学や歴史など学術研究に大きく貢献した塙保己一。しかし、その生涯は決して華々しいものではなく、むしろ苦難と挫折の繰り返しだった。<塙保己一略歴>
延享3年(1746年) | 武州国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)に生まれる。幼名は寅之助。 |
7歳(1752年) | 病により失明。名を辰之助に改める。 |
12歳(1757年) | 母・きよが死去。 |
15歳(1760年) | 江戸に出て、雨富須賀一検校に入門。名を千弥に改める。按摩、鍼灸、三味線などの手ほどきを受けるが上達せず、失意の中で自殺を決意したことも。 |
16歳(1761年) | 学問の道を志す。萩原宗固に国学や和歌を、川島貴林に漢学や神道を学ぶ。 |
18歳(1763年) | 衆分となり、名を保木野一に改める。 |
24歳(1769年) | 晩年の賀茂真淵に入門。 |
30歳(1775年) | 勾当となり、名を保己一に改める。 |
34歳(1779年) | 『群書類従』の出版を決意、編さんを始める。 |
38歳(1783年) | 検校となる。 |
48歳(1793年) | 和学講談所を開設する。 |
50歳(1795年) | 父・宇兵衛が死去。 |
58歳(1803年) | 盲人一座総録職となる。 |
60歳(1805年) | 盲人一座十老となる。 |
73歳(1818年) | 盲人一座二老となる。 |
74歳(1819年) | 『群書類従』全670冊(現在は改定を経て666冊に)完成。 |
76歳(1821年) | 総検校職となる。9月12日、逝去。 |
『続群書類従』の計画など保己一の事業は息子・塙次郎に継承される。相続時には、千五百両(現在のお金に換算すると1億円超)という多額の借金が残されていたという。文久2年(1862年)、後継者・塙次郎は、伊藤博文ら若き浪士に暗殺される。