小笠原諸島が日本の帰属となった背景
小笠原諸島は日本の国土(東京都小笠原島)であり、今日、いくつかの島では日本人が生活している。しかし、江戸時代から日本とアメリカ、ロシア、イギリスの間で小笠原諸島の領有が問題になっていた。紆余曲折を経て、明治9年(1876年)、日本への帰属が国際的に認められる。実は、その背景に、塙保己一の功績があったのだ。諸外国の間で小笠原諸島の領有が問題化する中、幕府はそこが日本固有の領土であることを証明する資料を探していた。そこで、塙保己一の子息・塙次郎のもとを訪れ、「辰巳の無人島を小笠原島とも言うが、その命名の由来が分かれば答えよ」と質問状を投げかけた。次郎は、保己一が設立した和学講談所に収蔵された資料を詳しく調べ「小笠原島は文禄2年、小笠原民部少輔貞頼(小笠原貞頼)が高麗より帰朝の際に発見した島で、以降、小笠原島と呼ぶ。当時この島には住居はなく、そのため無人島とも呼ばれるようになった・・・」と記された文献(辰巳無人島訴状并口上留書)を発見。幕府に回答したのである。
この資料が列強の介入を防ぎ、小笠原諸島の日本帰属は決定的となっていった。このように文書保存は学術面だけではなく、時には政治的、国家的規模で有用な武器になることもあるのだ。